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政治とは

  • 2014/03/15(土) 23:23:09

株価だけを上げておいて不満のカタマリにならないように布石を打っておき、
自分たちの税金をとることの目的は着々と遂行する。
そこだけはブラさない。

あんまりあからさまに明るさや希望がない状況で、めちゃくちゃ不景気なのに増税して叛乱精神に火をつける人間がでてきては困るから。

表面上は景気がいいと誤魔化せていると考える。

また多くのひとがそれに誤魔化されてしまう。
テレビや各メディアは今ならオリンピックとかお笑いやスポーツしか流さず肝心なことは報道しないようにしているのも、もういつものことだ。


体制は気づかれるのが困る。
知られて問題意識を持たれ、それが不満になるのがいちばん怖い。

しかし一般的な感覚はいつも強者が作り出す宣伝や策略にすっかり乗って享楽し楽観的になってしまう。


ひとは気分の悪いことが嫌いなわけで、
故に気分を害しそうなことは避けがちになる。
いちいち自ら首を突っ込んで気を揉むより他に楽しいことでもしようとする。


あるていど、プレッシャーをかけないと、世の中は強者の思うままに事を運ばれてしまう。

自分の人生を他人にコントロールされて、ヘラヘラしているようでは話にならない。

なににしても意識が大切であると思うよりほかはない。


意識。
享楽のなかからはなかなかでてこない。

といっていつも凝り固まったペシミズムのなかで生活するのもあまりに貧しい。

けれどある程度の注意、やはり意識する、という心づもりが大事だ。



まずはその少しの気づき、意識からでも為政者や役人に対してプレッシャーをかけなければならない。


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「本」はなぜいまだになくならないのか

  • 2013/12/15(日) 01:27:48


100年ぐらいまえ、例えばテレビがなかった。
ラジオもほとんどなかった。


娯楽が少なかった。娯楽もそうだし物質自体少なかった。






二千云十年、あらゆる情報や娯楽は溢れかえっている。


なるほど本なんかより楽しいものはあちらこちらにありそうだ。



本なんぞとっくに時代遅れの仲間入りで、真っ先に淘汰される先頭でその身を脅かされていても良さそうだ。



それでも本を読むひとはいる。必要に思うひとが一定数いる。
なぜ必要なのだろう。


テレビもあり映画もある。ネットもあれば他にも娯楽や興味を引くものはそこらじゅうに散らばっているはずだ。


それでも本を読むというひとは、テレビのスイッチを押すのがとても面倒なのだろうか。


映画を見るとめまいでもし始めるのだろうか。。





本、にはいったいなにが書かれてあるのだろう?



そこに血の通った温度も、匂いもしない。笑い声も聴こえてこない。



本はなにも応答しない。本はいつも静かに、ただポンとある。


そこには微細で繊細な感覚や、そこにしかない想像の視覚的な世界がある。


音楽は聞こえない。がしかしなにかのリズムのようなものが、自分自身のなかに、無意識に流れているもののうえに乗っかかってきたりする。



そういえば人間は鼓動しているし、頭のなかで考えたりしてる言語も、しゃべり言葉も、瞬きするのも、歩くスピードやそのとき伝わる振動も、呼吸するのも、
なにかのリズムのようなものだ。

個人個人そこに各々のリズムがある。



ひとは知らぬ間に自分のリズムを持っている。





本はとても繊細で微弱な電波のようなものを出している。

とかく理性やモラル、知性に対してアクセスすることが多いかもしれない。




いまの世の中、微弱で繊細な種々事柄は、そうではないその対極の、ガサツで鈍重で、質の悪いだけの”速さ”やそれら”長きもの”が包摂しているかのような、
なにかそれらが前提にでもなっているかのように思わずにいられない。



大は小を兼ねる…とでも言いたげな、
小なんだから大に兼ねられて当然だ、というようにもみえる。



大は小を軽視している。

”大”は世の中の流れのなかでの多数派、多数的という、ただ人数が多いというだけのことに他ならない。


ひとつの形勢であり、必ずしも数の多さがイコール、正しいというわけではないのは当然のことでもある。


また、この場合の、”大”と”小”はそもそもマッタクの別もの、比べあうような類のものではないはずだ。







自分の欲するものを得ようとするなら、
ネットの動画の方が言いたいことが纏められていそうだし、便利で効率的かもしれない。

読まなくとも、聞いていればいいし親切だ。


映画の方がクリエイティビティに溢れ、なにか豊かな気持ちになれそうだ。


或いはテレビのほうが、バカ笑いしたりしてストレスを発散できるかもしれない。



本はときどき、いやしばしば、自分が求めたり、求めようと思っていることに直結しない要素がたっぷり織り込まれてある。
本を読むのはなかなか時間を費やす作業だ。


他者の温度感や声も聴こえず、次第に周りが静寂に囲まれ、たいていのひとが嫌がる孤独の領域に近いような場所に位置する空間かもしれない。







それでもあなたは本を読もうとするだろうか。

本にはいったいなにが書いてあるのだろう。

そこに、いったいなにがあるのだろうか。



力のかけ方、抜き方、外し方、 ところで…

  • 2013/11/29(金) 22:41:47




ひとは、意味がない、意味がなかった、というのを恐れる。

無価値を恐れる。





自分が対象にかけた時間が徒労に終わり、不毛な思いをするのを、想像することさえ恐れる。





ボクサーは、相手に打たれたときより、
渾身のパンチが空を切ったときのほうがダメージが大きいという。








それを恐れるかのように、対象に対して執着する。またしようとする。


執着のなかでとてつもない葛藤やエネルギーの痕跡が張り付く。


執着は密着の状態。
執着のつよさは、固執を生む。











執着から少しでも離れてみる。


少し空間ができる。
空間は猶予である。




まわりみちをすることもできる。





ところで、どのみちがまわりみちであって、どのみちがまわりみちでない主要なみちであるか、だれにわかるだろう?




ひとはなにかの周りを周り続けるのではないだろうか。



周りみちの”先”へ急げど、
はたしてだれにその土地の住所がわかるだろう?






場合によっては、まわりみちが問題に対し有益に働き得る。
また、まわりみち”こそが”、功を奏するに至る過程になり得る。

まわりみちは気晴らしの類や悠長なことばかりでもない。





まわりみちは無駄ではなく、
無意味でもない。
また、無価値でも不毛でもないはずだ。



風が常に、一直線からしか吹いてこないことがないように。


あなたは、矛盾がなにかを、知っているだろうか?

  • 2013/11/20(水) 21:03:52

時代の求めてるものに迎合すると自身がつまらない。


さりとて我を通すと角が立つ。


なんだか夏目漱石の草枕の冒頭を思い出す。。




人は”価値がある”、と思うから、

時間を割いたり、お金を出したりする。




あなたは”価値がない”と思うものに、時間やお金を使おうとおもうだろうか?




しからば、”価値”にならなければ、あるいみでは自己満足、
ということになる。




しかし価値に拘ると窮屈だ。



ひとは、直列つなぎではない。




窮屈だという時点で矛盾を認識している。




まことに人の世は住みにくい。。と続けば、やはりだんだん草枕に似てきた。。

欲望について

  • 2013/11/08(金) 21:06:47

社会主義的な配分形式の制度や社会の在り方が成立しない理由のひとつに、

均一化、みんなが横一線では、人間の心理として、社会的に成立し得ない、というものである。

なぜならば、他と比べたなかで優越感や安心感に浸りたいからである。

ひとよりも幸福で”ありたい”と思いたいのであると同時に、幸福であることを”知っていたい”とも思うからである。


幸福であることを”望み”そして他と比べることで社会のなかでの自分の位置を確認することで”安心”するというところに落とし込みたいのである。

自分の主観的な感情が他人と比べ、一段高いところにあるという意識は、安心感と或いは、優越感を生み、そのなかに幸福を見出そうとするのである。

だから一度中央に集めたものを均一的に配分しようとしても、また仮にそれができたとしても、その制度は内側のどこかから、腐り、蝕まれ、腐敗し、崩れ落ちるに至るのであると考えられる。