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矛盾

  • 2014/05/08(木) 22:31:53

矛盾に苦しむときがあるかもしれない。
が、苦しめばいいし苦しまなくてはならないことを強いられている。


そこに気づいた時点であるいみ謙虚なひとだともいえる。
謙虚に注意深く生きていればたいていのひとはそこの壁に行き着くというものである。


謙虚でなく、注意深くなければそれにすら全く気づかず平然と他人や社会でおおまかに決まっているような所謂決まり事を鵜呑みにし、
それを疑うことなく安穏と過ごせてしまう。

要するに都合のいいことだけを聞いてそれは取り入れ、都合の悪そうなことには目を向けようともしないのである。



それよりも人間には二面あってまたその二面性があることは普通なのに、どちらか一方だけを突出させ、片方を押し込め綺麗事で片付けて平気でのうのうとしているような人種がいるとしたらそれのほうがおかしいのである。


必ず二面あり、頭ではこう考えている、と思っていても体がそうできなかったり、
社会的な立場上、口でいうことと、行動がちがったり、
理想と現実のギャップにせよ、本音と建前然り、
顔では笑って心では泣いていたりと、
矛盾することは日常のあちこちに転がっている。



当然矛盾はするわけだが当然だからとてそれに苦しまなくて開き直っていていいというわけではなく、むしろほとんどのひとはそこに葛藤や苦しみを憶えるわけである。

問題はそのズレ、乖離にどうするか、で乖離してはいけないと躍起になるあまりどちらか一方で他方を押し込めてごまかすような詐欺行為の方が大問題でありまた欺瞞というべきものではないだろうか。


苦しいかもしれないけれど生きていれば必ず自分が矛盾していることを自覚するときが普通はあるはずだ。


哲学的な解決策をみつけようとまでしなくとも良いにせよ、
その苦しみをごまかしてしまうことなく真摯に向き合い、自分なりの解決策を導き出そうとしていること、折り合いをつけようと苦悩していること自体、なんらおかしいことではなく、むしろその過程があればこそ、他人や社会のことがわかるようになってきたりするというものではないだろうか。


ひとは矛盾を抱えながら自身のなかで常に、葛藤という戦争状態のような攻防のあとに傷を負いながら生きているのである。

もしかすると、傷を負うことが人生なのだと言い換えていいのかもしれない。


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問題解決の方法

  • 2013/12/04(水) 10:09:58

ヒエラルキーのかなり上のほうに位置しない、普通の一般人は、
”やりたいこと”より、
”やらなければいけないこと”の、どうしても通らなければいけない道がある。



つまりは、実践的である必要がある。



形而上的発想、思考、論理形態のみであっては、
実生活の大きな部分が欠ける。



この場合とかくそれは時間を指す。
お金もそうだが、お金は時間のなかに包含されてるとみていいのではないか。



なにをするにも、考えるにも必ず時間が消費される。




時間はイコール命のことであり、
この世に時間と健康以上に大事なものは見当たらない。




あとは、それの、”使い方”ということになる。



そこらへんから、ひとの”方法”に対する試行錯誤、アプローチが始まる。



しかし方法に取り込まれすぎると物事が抽象化しやすく、宙にも浮きやすくなる場合がある。



常に地に足をつけていようと思えば現実の場での実践感が伴わなければ、自身の内側の乖離の差異が膨らむ。



自分の、社会のなかでの置かれてる状況によって、やらなければいけないことが各々違う。





ひとは無理をしたり取り繕ったりしてみても、
それがあまりに不似合いな場合、
必ずといっていいほどに、
”お里が知れてくる”。







実践の場は問題だらけ、問題のカタマリのようなものだ。


結局それに対してどうするのか、という避けては通れない必然が条件に絡んでくる。


問題を問題のままにしておかず、
またあまりに抽象化しすぎたり分解しすぎたりして、なにか違うところに着地させたり、行き着くことばかりで、
結局どう解決するのか、というのが実践的に必要な事柄、現実の場で実体的に要求されることではないか。




アタマだけでも、また理論だけでもいけないという話ですが、

とても難しいことだと感じます。。

武士道と言ふは、死ぬ事と見付けたり

  • 2013/12/02(月) 00:17:35

現実とはいつの時代も拍子抜けするような場であるのではないだろうか。




そんなに、ピシッとしたことで固められてはおらず、
ズルいやつもどこかにはほぼ必ずといっていいほど居て、
打算的狡猾的な人種とのいざこざに巻き込まれもし、
ともすれば不毛にいたずらに時間ばかりが過ぎ去ってゆく。




理想が高かったり、意志が強いようなひとほど、その現実との差異を感じるものだ。




だからこそ、なにか理想を掲げそれに向かって生きようとしたり、自分なりに覚悟を決める対象を探し、それに向かって生きていこうとする。





西洋ふうにいえば宗教がそれにあたるかもしれないし、
日本は、葉隠のような武士精神的覚悟、があったりした。



葉隠は、いちばん人間の嫌がる、死に対し、能動的な覚悟をみせることのなかに、自由があるとした。

高尚な自由である。



しかしその積極的能動性の裏には、
深いところでの虚無、を捉えていた。


それを思わせる一説に、


「人間一生誠にわずかの事なり。
好いたことをして暮らすべきなり。」

とある。


いかにも山本常朝がいいそうにない言葉である。


そこに葉隠のみせる人間味というか、人間臭さのようなものがはっきりと伺える。

自然体で構える柔らかい人間味のようなものを感じる。




しかしそのなかに堕落や退廃、享楽のような毒のような要素が潜んでいることも同時に察知していた。


この一説のあとに、ちゃんと付け加えるように言及している。


「このことは、悪くとられては害になる話だから、年の若い連中には、けっして喋らぬ極意としておこう。」



この一連に、著者のニヒリズムが感じられる。


そこに対してどうするかを、実践的に考えた。
後の西洋ふうにいうところの実存主義的に生きれないという葛藤を突破するために、


武士といふは、死ぬことと見つけたり。

という覚悟。人間のいちばん嫌がり、避けようとする、死に対し、能動的に自らが入って、
恐怖に対する距離を、つめようとした。


距離は恐怖である。距離があるのは、その距離のぶんだけ恐怖が増すのを知っていたのだろう。


その能動性と覚悟のなかにこそ自由や生きる意味、をみいだした。

そんなふうに感じられる。



日常の些事瑣末なことにただただ生命を浪費するような時間の重ね方のなかに、美、というか、なにか高尚なもの、実存的なものをとても見いだせるとは思えなかった。



「まことにわずかな一生」、であるからこそ、その少ない時間をどうすれば本当の意味で有意義なのか、を問うた。




必ずしも、享楽やただ生き延びようとすることのなかに、自由や、自分にとっての一生があるとは考えなかった、世界の他の国にはない、ひとつの哲学である。



減らせる、という能力

  • 2013/11/22(金) 19:46:49



例えば旅行に出かけるようなとき、荷物を多く持っていこうとするタイプか、
できるだけ最小限にコンパクトに纏めようとするタイプか、
どちらが多いだろう?



多くを準備し、多くを抱えようとするか、
できるだけ少なく身軽で動きやすい方がいいか、
あなたはどちらだろう。



ウェブの時代になってから、世の中はあらゆる情報で溢れかえっている。

ほんの数十年前まで、ネットもなかった。

携帯もパカパカさせるやつが主流だった。
その前はPHSや、ポケベルなんていうものもあった。。

それが今やスマホの時代になった。


またそれに伴うように情報も氾濫するようになった。
ポケットからすぐ取り出し、どこでも瞬時に情報にアクセスできるようになった。


便利になったのと引き換えるように、
わたしたちはとても多くの情報を持つようになった。


知らなくていいような情報にまで興味を延ばすことも珍しくはない。


時間さえあれば、情報にアクセスし、情報を得るために時間を使う。
そんな毎日もあたりまえになった。


誰でもが手軽に簡単にいろんな情報や他人の生活やリズムまでをも知り得ることができるようになった。




そこで、わたしたちはなにを手にしているのだろう。




情報をあたりまえのように需要するけれど、それで一体なにを得ているのだろう。



もしかすると、情報に縛られていやしないだろうか。という思いがこみ上げてくる。

情報にアクセスしていなければ、不安で落ち着かない、社会の動きについていけない、
友達や周りの会話に入れない、など、
ひとつの強迫観念のようなものが裏打ちして情報にアクセスすることを追い立てているようにも思える。



それは”自分自身”よりも”情報”の方が上に来ていて、首根っこを押さえられてるような状態のように見えなくもない。

情報に乗られてる、
乗りかかられてる、ような状態、
こんなふうに感じる。



情報を追っているはずが、
逆に情報に追いかけ回されてるようにみえてくる。


いろんなことを知ることができるようになったぶん、
選択肢や、視野や、世界観が広がったかのような気になる。


しかし選択肢の多さは時に混乱を招く場合もある。
所持したものの重みも同時に背負うことになる。

またそれに費やす時間も増えてしまう。



ひとはなにかを知ると、なにかを失うこともある。




顔が売れ、有名になればお金や名声が手に入れど、誰でもない、ナニモノでもない”無名であるという気ままな自由”が同時に奪われるように。




誰でもが簡単に情報にアクセスできるようになり、
いままで専門家やごく一部のひとしか知りえなかった専門的なことまで知れるようにもなった。




おかげでわたしたちはとても”荷物持ち”になった。




多くを選択できるというのは、
時に重荷でもあり、不毛に時間を浪費し、得たところであまり役に立たないものであるかもしれない。

また周りの雰囲気や、置いていかれないがためにひとつの強迫観念のようなものが裏打ちし、急き立てるように情報にアクセスしようとしているようにもみえる。



情報が氾濫した渦のなかに身を置いていれば一種の”酔い”のような状態にもなる。
酔いが回っているような状態で頭のなかが果たしてクリアだろうか?



また情報に時間を割きすぎるのは自分の限られた時間を侵食することになる。

得た情報の量の多さは、単に重みになる場合もある。




本当になにかを得ようとおもえば、
余白や空き、スペースがないとすんなり入ってこない。



荷物を持ちすぎて息を切らし、手も足も塞がっていては走ることもできない。
腹いっぱいなのに、それ以上食べられない。
そんな状態は、愉しむような気持ちや、ゆとりも半減してしまいがちになる。

またなにより限られた時間を有効に使えていないかもしれない。


スペースがない状態は負担以外のなにものでもない。



ひとは息が詰まったと感じたとき、
伸びをし、深呼吸をしてひと息つくような動作をするのも、自身のなかにスペースやゆとりを確保しようとする無意識が裏を打っているからではないだろうか。


情報というなだれに重圧をかけられ、息の詰まるような状態では、なかなか本当に自分にとっての必要な情報を得る機会までをも失ってしまいやしないだろうか。




新しく吸収するものを増やし、自分を高めたいと思うからこそ、
今の自分の持ち物の量と、その関わり方をよく見直し、
エネルギー豊な状態でいるためには、
減らしたことで生まれたスペースから、
新たな自分にとっての価値が顔を覗かせることがあるかもしれない。



ひとは自分が得たものをなかなか手放したくないものでもある。


しかし得たものを、自分から処理し、捨てていける、ということの方が、はるかに難しいことのひとつだといえはしないだろうか。


それができたとき、また新たな世界がみえるのかもしれない。





選択の重要性について

  • 2013/11/19(火) 17:01:38

例えば世界の名だたる富豪、金持ちはなにかに賭けた。

賭けたのだ。

ジョンポールソンはサブプライムローンの下落にゴールドを80%の極端なポートフォリオをとった。

カルロススリムヘルもメキシコの危機に逆張りし、賭けた。ひとつの賭けだった。


ビルゲイツだってジョブズだって、当時ではまだ馴染みのない、関心の薄い、皆が注目しないような分野に自身の内では賭けていた。



ハイリターンを生むに至る過程に、ハイリスクが伴うにも拘らずそれに賭けていたということになる。

なにか、ハイリスクに賭けたのだ。
ハイリスクとは危険な目に合う確率の高さのことだ。

しかし彼らはそれを、選択した。

賭けた、というのは、なにかを取った、選択した、ということだ。


なにか対象や分野、企業に投資した。
自分自身に投資するにも自身をどの分野に向かわすかを、"選択"したのだ。


将来を決めたり、大事な進路を決めるような重要な選択を迫られたときに、二の足を踏みがちになるのは誰にでも経験があるのではないだろうか。
そのようなときに、大いに危険が伴う分野や場所に賭けたということになる。


賭けたという選択の対象は
お金だけじゃなくて、気概でもいい。自分の時間や興味でも。


人は日々必ず小さなことでもなにかを選択している。


日々のなかで歩みを進めるとは、言い換えれば、選択の連続の集積である。


ほとんどは小さな選択の連続のなかを行き来しているが、
たまに大きな選択を迫られるときもある。


そのときに恐怖を感じるなというのは難しいけれど、そこで"なにも選択しない"、を選択すると、波形の針は振れない。

なにも選択せずに、無振動でいるのは、楽なようで却って楽ではないことも多い。


失敗したときの後悔より、なにもしなかったときの虚無感の重圧のほうが、はるかに辛く思えることが多いように思う。




世の中のあらゆる動きに対してもじっとしていると、この時代だと自然に淘汰されてしまうかもしれないぐらい目まぐるしい趨勢のなかにいる。

選択が鈍れば淘汰される場合もある。

選択するというのは、なにかを捨てることでもある。

選択、というファクターはそれほど重要に位置する。



選択するとは、賭けるという要素にちょっと近いものがある。
ちょっとした願掛けに近いような意味合いを含めて。


この世の中に100%の確証や保証なんて誰にも何処にもないのだから、
なにかを選ぶにあたって、
それはどこかで一種の願掛けのような要素が伴うように思える。

最終的になにかを選び取るときの状況は、一種の願掛け的心理に似てなくもないように思える。


ひとはどこかで飛躍させて着地させなければいけないときもある。


それでも”わたしはなにも選択していません。”という場合も、
”なにも選択していない”、の状況を選択していることになる。

つまり意識はしていなくても、なしくずしというカテゴリーを自然に選択していることになる。


なにかを選択しようとするとき、それが大きければ大きいほど、恐怖心も大きくなるけれど、
何も選択しない、なしくずしのなかで、とりあえずの現状維持、事なかれ主義的楽観姿勢を突出させて、
質の悪い刹那主義をやるというのも非常に大きな大きなデメリットが待ち受けている、と感じる。



なにかに対して、受動的な受け身でいるよりは、能動的に選択したほうが、
気分や自意識にも良い、というふうに思う。

なにより能動的に選択をする姿勢は、その能動性のなかに、決定権がある。


自分の人生や時間の決定権を、安易に飽和し、蒸発させるようではあまりにもったいない。



与えられるばかりのなかで、受け身で消去法で選択を迫られるより、

できるだけ、能動的な選択を心がけるほうが、はるかに有意義な時間になるはずだ。



また、賭けるという気概、選択できる力は、ひとつのスキル、能力でもある。

選ぶべきときには、選ぶ。
これはひとつのスキル的要素だ。

マジョリティに左右されずに、しっかり自分で選べる、というのは実はかなりの能力だ。


毎日のなかで、ある意味では、
どうせなにかを選択することになる、のだから、


有意義になるための能動的な選択を心がけるべきではないか思う。

また、選択の連続のなかで、選択というものを意識してみると、なにか少し変わるものがあったりするかもしれない。



日々歩みのなかで時間を重ねるというのはつまり、選択の連続である。



選択が人生を形づくり、あなた自身をも形づくる。