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力のかけ方、抜き方、外し方、 ところで…

  • 2013/11/29(金) 22:41:47




ひとは、意味がない、意味がなかった、というのを恐れる。

無価値を恐れる。





自分が対象にかけた時間が徒労に終わり、不毛な思いをするのを、想像することさえ恐れる。





ボクサーは、相手に打たれたときより、
渾身のパンチが空を切ったときのほうがダメージが大きいという。








それを恐れるかのように、対象に対して執着する。またしようとする。


執着のなかでとてつもない葛藤やエネルギーの痕跡が張り付く。


執着は密着の状態。
執着のつよさは、固執を生む。











執着から少しでも離れてみる。


少し空間ができる。
空間は猶予である。




まわりみちをすることもできる。





ところで、どのみちがまわりみちであって、どのみちがまわりみちでない主要なみちであるか、だれにわかるだろう?




ひとはなにかの周りを周り続けるのではないだろうか。



周りみちの”先”へ急げど、
はたしてだれにその土地の住所がわかるだろう?






場合によっては、まわりみちが問題に対し有益に働き得る。
また、まわりみち”こそが”、功を奏するに至る過程になり得る。

まわりみちは気晴らしの類や悠長なことばかりでもない。





まわりみちは無駄ではなく、
無意味でもない。
また、無価値でも不毛でもないはずだ。



風が常に、一直線からしか吹いてこないことがないように。


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”気分の悪いこと”はなくてはならない

  • 2013/11/26(火) 19:57:32



世の中に、毎日の生活のなかに、気分のよくない、納得のいかないことが、だれにでもあるはずだ。



政治が悪い、システムが悪い、税金は高い、会社に馬の合わない人間がいる、給料が少ない、意見の違う人間がいる、毎日単調で面白くない、、、



普通に生活していても、なにか気に食わないことや、問題意識が芽生えてくる。


問題意識は基本的には”重り”のようなものに感じられる。

重圧やプレッシャーや苦痛の類に。



苦痛であることには変わりはなくても、苦痛であるから気づくことや、それが故にはねのけようとする反発心、つまり、なにかをしよう、と思うに至らしめることもある。




なにか反発心や思い通りにいかない事柄もあったほうがいいのだ。



なんにもなかったら暇でしかない。


暇を持て余し、カネを持て余した中世ヨーロッパの貴族は、暇をどうしていいかわからなかった。




おかしいと思うことやこうあるべきではないかと思うような事柄を背負うと重圧にもなるが、逆にエネルギーにもなる。

バネのような踏み台になる。




時間とお金が有り余ったような状態は、昔の公家のように詩歌を詠むようなことでしか愉しみがない状態をつくるかもしれない。

詩歌を詠むか、蹴鞠をするぐらいしか時間というものに対して関わることができなかった。




暇を持て余した先での芸術的感情よりも、日々の現場、実生活のなかから自然に出る芸術的感情のほうが、よほど人間らしいと思う。







フォーカスし、テーマを絞ることがある、というのはエネルギーを落とし込みやすい状態、ということでもある。


とりとめもなくなんでもできると言われたらうろたえるだろう。


ノートも、目盛りや線が引いてあるやつのほうが安心する。



なんでもできるというあまりに広大な状態というのは、宇宙にでも放り出されたかのような孤独感や疎外感のようなものがまとわりつくようなもので、えてして、なにもできない、という気になることかもしれない。

つまり却ってなにもできないことになるのではないか。





不快な気分や腹立たしい気持ちは、
フォーカスされた、絞られたテーマのなかで、右往左往し試行錯誤するほんの些細な、なにかのきっかけで、反転し得る場合もある。


フォーカスし、絞った範囲のなかで、もがいたり抵抗をしたからこそ出る”動き”でもあるのだ。





わからないときは、とにかく次のページをめくるしかない。



なにが自分にとってのきっかけになるかなど、自分自身もわからないのだ。



あくまでアクションしたからこそ出る”動き”であり、
そのアクションを起こすには、
ある程度、”幅”を、また”テーマを絞る”、ということでエネルギーを落とし込みやすい状態を作れる。




普通に生きてて、受身で決められた、幅、も幅ではあり反発心を煽るがしかし、


自分でフォーカスし、その対象やテーマを決めて、自ら、いってみればひとつの目標とでもいうか、指標みたいなものを決めるというやり方のほうが、跳躍しやすい。また有意義だ。




自由とはつまり能動性のなかにあるものだ。




とりとめもないことは、ひとを不安にもさせ、動力を鈍らせる。


そこに刺激的要素、社会のなかでのおかしいと思う、納得のいかない、受動の刺激があるいみ自然的に加わる。


それに対しての反発心、反骨心だけでは、焼けた石のように、あまりにもただ熱すぎ、他人にも、また自分自身も怪我をする恐れもあるので、



自分でカテゴリーや、テーマ、範囲を決めることのなかで、跳躍するような自分の素直なエネルギーを落とし込むというひとつのやり方も、上乗せして考えると、



そんなに、”わたしたちを気分悪くさせる様々な問題”、も、


悪い”ばかり”ではないことに気がつく。



減らせる、という能力

  • 2013/11/22(金) 19:46:49



例えば旅行に出かけるようなとき、荷物を多く持っていこうとするタイプか、
できるだけ最小限にコンパクトに纏めようとするタイプか、
どちらが多いだろう?



多くを準備し、多くを抱えようとするか、
できるだけ少なく身軽で動きやすい方がいいか、
あなたはどちらだろう。



ウェブの時代になってから、世の中はあらゆる情報で溢れかえっている。

ほんの数十年前まで、ネットもなかった。

携帯もパカパカさせるやつが主流だった。
その前はPHSや、ポケベルなんていうものもあった。。

それが今やスマホの時代になった。


またそれに伴うように情報も氾濫するようになった。
ポケットからすぐ取り出し、どこでも瞬時に情報にアクセスできるようになった。


便利になったのと引き換えるように、
わたしたちはとても多くの情報を持つようになった。


知らなくていいような情報にまで興味を延ばすことも珍しくはない。


時間さえあれば、情報にアクセスし、情報を得るために時間を使う。
そんな毎日もあたりまえになった。


誰でもが手軽に簡単にいろんな情報や他人の生活やリズムまでをも知り得ることができるようになった。




そこで、わたしたちはなにを手にしているのだろう。




情報をあたりまえのように需要するけれど、それで一体なにを得ているのだろう。



もしかすると、情報に縛られていやしないだろうか。という思いがこみ上げてくる。

情報にアクセスしていなければ、不安で落ち着かない、社会の動きについていけない、
友達や周りの会話に入れない、など、
ひとつの強迫観念のようなものが裏打ちして情報にアクセスすることを追い立てているようにも思える。



それは”自分自身”よりも”情報”の方が上に来ていて、首根っこを押さえられてるような状態のように見えなくもない。

情報に乗られてる、
乗りかかられてる、ような状態、
こんなふうに感じる。



情報を追っているはずが、
逆に情報に追いかけ回されてるようにみえてくる。


いろんなことを知ることができるようになったぶん、
選択肢や、視野や、世界観が広がったかのような気になる。


しかし選択肢の多さは時に混乱を招く場合もある。
所持したものの重みも同時に背負うことになる。

またそれに費やす時間も増えてしまう。



ひとはなにかを知ると、なにかを失うこともある。




顔が売れ、有名になればお金や名声が手に入れど、誰でもない、ナニモノでもない”無名であるという気ままな自由”が同時に奪われるように。




誰でもが簡単に情報にアクセスできるようになり、
いままで専門家やごく一部のひとしか知りえなかった専門的なことまで知れるようにもなった。




おかげでわたしたちはとても”荷物持ち”になった。




多くを選択できるというのは、
時に重荷でもあり、不毛に時間を浪費し、得たところであまり役に立たないものであるかもしれない。

また周りの雰囲気や、置いていかれないがためにひとつの強迫観念のようなものが裏打ちし、急き立てるように情報にアクセスしようとしているようにもみえる。



情報が氾濫した渦のなかに身を置いていれば一種の”酔い”のような状態にもなる。
酔いが回っているような状態で頭のなかが果たしてクリアだろうか?



また情報に時間を割きすぎるのは自分の限られた時間を侵食することになる。

得た情報の量の多さは、単に重みになる場合もある。




本当になにかを得ようとおもえば、
余白や空き、スペースがないとすんなり入ってこない。



荷物を持ちすぎて息を切らし、手も足も塞がっていては走ることもできない。
腹いっぱいなのに、それ以上食べられない。
そんな状態は、愉しむような気持ちや、ゆとりも半減してしまいがちになる。

またなにより限られた時間を有効に使えていないかもしれない。


スペースがない状態は負担以外のなにものでもない。



ひとは息が詰まったと感じたとき、
伸びをし、深呼吸をしてひと息つくような動作をするのも、自身のなかにスペースやゆとりを確保しようとする無意識が裏を打っているからではないだろうか。


情報というなだれに重圧をかけられ、息の詰まるような状態では、なかなか本当に自分にとっての必要な情報を得る機会までをも失ってしまいやしないだろうか。




新しく吸収するものを増やし、自分を高めたいと思うからこそ、
今の自分の持ち物の量と、その関わり方をよく見直し、
エネルギー豊な状態でいるためには、
減らしたことで生まれたスペースから、
新たな自分にとっての価値が顔を覗かせることがあるかもしれない。



ひとは自分が得たものをなかなか手放したくないものでもある。


しかし得たものを、自分から処理し、捨てていける、ということの方が、はるかに難しいことのひとつだといえはしないだろうか。


それができたとき、また新たな世界がみえるのかもしれない。





あなたは、矛盾がなにかを、知っているだろうか?

  • 2013/11/20(水) 21:03:52

時代の求めてるものに迎合すると自身がつまらない。


さりとて我を通すと角が立つ。


なんだか夏目漱石の草枕の冒頭を思い出す。。




人は”価値がある”、と思うから、

時間を割いたり、お金を出したりする。




あなたは”価値がない”と思うものに、時間やお金を使おうとおもうだろうか?




しからば、”価値”にならなければ、あるいみでは自己満足、
ということになる。




しかし価値に拘ると窮屈だ。



ひとは、直列つなぎではない。




窮屈だという時点で矛盾を認識している。




まことに人の世は住みにくい。。と続けば、やはりだんだん草枕に似てきた。。

選択の重要性について

  • 2013/11/19(火) 17:01:38

例えば世界の名だたる富豪、金持ちはなにかに賭けた。

賭けたのだ。

ジョンポールソンはサブプライムローンの下落にゴールドを80%の極端なポートフォリオをとった。

カルロススリムヘルもメキシコの危機に逆張りし、賭けた。ひとつの賭けだった。


ビルゲイツだってジョブズだって、当時ではまだ馴染みのない、関心の薄い、皆が注目しないような分野に自身の内では賭けていた。



ハイリターンを生むに至る過程に、ハイリスクが伴うにも拘らずそれに賭けていたということになる。

なにか、ハイリスクに賭けたのだ。
ハイリスクとは危険な目に合う確率の高さのことだ。

しかし彼らはそれを、選択した。

賭けた、というのは、なにかを取った、選択した、ということだ。


なにか対象や分野、企業に投資した。
自分自身に投資するにも自身をどの分野に向かわすかを、"選択"したのだ。


将来を決めたり、大事な進路を決めるような重要な選択を迫られたときに、二の足を踏みがちになるのは誰にでも経験があるのではないだろうか。
そのようなときに、大いに危険が伴う分野や場所に賭けたということになる。


賭けたという選択の対象は
お金だけじゃなくて、気概でもいい。自分の時間や興味でも。


人は日々必ず小さなことでもなにかを選択している。


日々のなかで歩みを進めるとは、言い換えれば、選択の連続の集積である。


ほとんどは小さな選択の連続のなかを行き来しているが、
たまに大きな選択を迫られるときもある。


そのときに恐怖を感じるなというのは難しいけれど、そこで"なにも選択しない"、を選択すると、波形の針は振れない。

なにも選択せずに、無振動でいるのは、楽なようで却って楽ではないことも多い。


失敗したときの後悔より、なにもしなかったときの虚無感の重圧のほうが、はるかに辛く思えることが多いように思う。




世の中のあらゆる動きに対してもじっとしていると、この時代だと自然に淘汰されてしまうかもしれないぐらい目まぐるしい趨勢のなかにいる。

選択が鈍れば淘汰される場合もある。

選択するというのは、なにかを捨てることでもある。

選択、というファクターはそれほど重要に位置する。



選択するとは、賭けるという要素にちょっと近いものがある。
ちょっとした願掛けに近いような意味合いを含めて。


この世の中に100%の確証や保証なんて誰にも何処にもないのだから、
なにかを選ぶにあたって、
それはどこかで一種の願掛けのような要素が伴うように思える。

最終的になにかを選び取るときの状況は、一種の願掛け的心理に似てなくもないように思える。


ひとはどこかで飛躍させて着地させなければいけないときもある。


それでも”わたしはなにも選択していません。”という場合も、
”なにも選択していない”、の状況を選択していることになる。

つまり意識はしていなくても、なしくずしというカテゴリーを自然に選択していることになる。


なにかを選択しようとするとき、それが大きければ大きいほど、恐怖心も大きくなるけれど、
何も選択しない、なしくずしのなかで、とりあえずの現状維持、事なかれ主義的楽観姿勢を突出させて、
質の悪い刹那主義をやるというのも非常に大きな大きなデメリットが待ち受けている、と感じる。



なにかに対して、受動的な受け身でいるよりは、能動的に選択したほうが、
気分や自意識にも良い、というふうに思う。

なにより能動的に選択をする姿勢は、その能動性のなかに、決定権がある。


自分の人生や時間の決定権を、安易に飽和し、蒸発させるようではあまりにもったいない。



与えられるばかりのなかで、受け身で消去法で選択を迫られるより、

できるだけ、能動的な選択を心がけるほうが、はるかに有意義な時間になるはずだ。



また、賭けるという気概、選択できる力は、ひとつのスキル、能力でもある。

選ぶべきときには、選ぶ。
これはひとつのスキル的要素だ。

マジョリティに左右されずに、しっかり自分で選べる、というのは実はかなりの能力だ。


毎日のなかで、ある意味では、
どうせなにかを選択することになる、のだから、


有意義になるための能動的な選択を心がけるべきではないか思う。

また、選択の連続のなかで、選択というものを意識してみると、なにか少し変わるものがあったりするかもしれない。



日々歩みのなかで時間を重ねるというのはつまり、選択の連続である。



選択が人生を形づくり、あなた自身をも形づくる。

意識することの希薄さについて

  • 2013/11/17(日) 21:37:57

光は360°一気に当たらない。


当たるところがあると、その裏は当たらない。


こういう因果関係が世界には存在してしまい、個々の内側の種々雑多な事柄にも影響させる。


それの集積が歴史であり今日もまた淡々とそれを続けている。



文明は利便性を求め、
利便性が消費に対し蕩尽をよび、
残ったのは、殺伐とした荒野になった。
経済的にはそのツケを払うに至った。


所謂ポストモダンは遠く模倣して、ニヒリズムが帰ってきた。



ひとはそこにとどまれず、どこか遠くへ行きたくなる。



ただ、多くの血が流され、
その犠牲の上に今日が成りっている。
少なくとも時代はそう代弁しているかのようだ。


我々は、結局犠牲者を出さなければ、生きてはいけないのだろうか。


ニヒリスティックな雰囲気が今日の立ち位置ならば、
まだ具体は遠い先なのだろうか。


具体に遠ければ遠いほど、大きな問題も小さな問題も、解決には程遠いだろう。



消費社会は過ぎ去り、資本主義は、
カネでカネを買うところまで来てしまった。


人間がやることとはこんなものなのだろうか。


やはりニヒリスティックな世の中だと感じざるを得ない。


果たして、ひとは何処かへ”向かおう”としているのだろうか?


意思や意識なしでは、なにも得られはしないのではないだろうか。






見極めについて

  • 2013/11/16(土) 12:34:38

自分の想いとは裏腹に、他人に勘違いをされた、ということはよくあることだと思う。


私の意図とは違う、
けっしてそんなつもりではない、
本当はこんな人間ではない、
誤解だ、
など、なかなか理解されないということで不甲斐ない思いをすることがよくあります。


例えば、各種メディア、マスコミがよくやる方法に、

「レッテルを貼る」、
というのがあります。


真意や真相がどうであれ、その人間やその対象を貶めたり、評価評判を下げる狡猾な手段として、
主観的判断で、ペタっと、レッテルを貼るのです。


それを目にしたひとは、あたかもそうであるかのごとく感化されます。


これがメディアの暴力といわれる所以です。


また自分の身近な生活のなかでも、
噂話などを真に受け、きちんと自分なりに吟味せずに安易に流されるように感化される場合があります。
伝染するかのように、その対象や人物に対してのバイアスが簡単にかかるのです。



古くは夏目漱石の時代にもありました。

小説、坊ちゃんのなかで、
陰で他人に変なあだ名などつけるものではない、といっています。
道徳観を説いているのもあるのでしょうが、

裏を返せば、そんなことをすることで簡単に他人を貶めれるし、
また、当人の本意とはべつの、
”ナニモノ”か、にしたて上げてしまうことが可能になるのです。


この手法を狡猾に乱用されてしまえば、そのひとやその対象を簡単に操作してしまえます。


各種メディアはこの手法を使い、一瞬で物事を陳腐化させるための常套手段にしており、
自分の身近なところでも、学校や職場、要は人が集まるところで起こるいざこざのなかで他人より優位に立とうとする心理から、狡猾な手段として相手を貶めるために、
"レッテルを貼る"ことで相手や対象をコントロールしようとすることに用いられたりすることがあります。


大事なのは、簡単に鵜呑みにしてしまわない、読者の読解力なのかもしれません。



薄っぺらな人生にならないためのバランス

  • 2013/11/13(水) 19:53:45

マザーテレサは、
愛の反対は憎しみではなく、
無関心だと言った。

およそ自分自身が他人に認知されない、または関心をもってもらえない、必要にされない、ということほど、辛いことはないのではないだろうか。

例えば仕事だと社会に関心をもってもらえなければ、仕事として成立しない。

なにか趣味から派生した活動や表現でも、静かにやっていたい場合は別にして、
開かれた場でやるならば、それは知ってほしいからだ。



自分よがりな人間は、関心事や時間、お金を自分の外に出したがらない。

当然、社会は、他人は、自分に関心をもってくれない。
そんな人間の元には、なにも戻ってこない。
故に孤独になる。

孤独にも二種類ある。
能動的な孤独と、そうなるべくしてそうなった、という孤独。
後者は孤立、というほうが的確だ。


前者は自ら孤独という敷地に入っていく。
後者は、因果関係の結果である。


似て非なるもので、後者に於いては改善も必要になる。


なぜならば意図したり、計画したりしたうえでの状況ではないからだ。
なしくずしを放置した先で起きるべくして起きた状況だからだ。


前者は自らが選択し、
後者は因果関係の結果だからだ。

自分を高めるには他人に安易に時間を割いてはいけない時もある。
しかしそちら側に傾倒しすぎると、
後者の方に比重が傾いてしまいがちになる。


ひとはだれかのためになることをするから認知される。
自分以外を思ってする行為が、結果的に自分を存続できることに繋がる。
また、必要だと思ってももらえる。
それが仕事にもなり得るし、充実にもなる。


このバランスはとても難しいけれど、このバランス感覚がないと、人生は薄っぺらなものになってしまう。

グローバル化

  • 2013/11/12(火) 09:53:11

大波であるグローバリズムが着々と進行している。
足元にひたひたと水は浸透してきている。
これからこの水の水位がどれぐらい上がるのかは誰にわからないが、
これは避けられない。


みんなこの問題、現象に関心があるのは、自分の仕事が淘汰され賃金が低くなったり、最悪はなくなったりしないか、と危惧するからだ。


また極端なナショナリストでなくても、日本の歴史や文化が、画一化され、資本の大きい、勝てば官軍の世の中で、カネにものを言わせ、日本独自に作っている製品や価値を拝金主義、資本原理主義にのっとって自社を大きく、より安泰にしようとする企業や組織がのさばるだけの世の中に拒否を示したいというのは資本を持たない一般人としては当然の意思表示や関心事である。



他国の安い通貨、労働力に合わせるわけだから、当然日本人の賃金も下がる。
下がるだけで済めばまだましな方で、

世界の巨大企業は、今は分化して機能しているものをすべて飛び越えて、自分たちの色に塗り替えて、今、分業化しているものを、ショートカットしてくるつもりでいるだろうから、そうなると仕事の種類の幅がかなり減少する。



減少すれば職にあぶれるひとが増える。
職を探そうにも、巨大企業が上流から下流までを占めて、一人勝ちの状態なので、職自体がなかなかみつからない。

かろうじて見つけても、とてもやっていけるような賃金をもらえない。

こぢんまりと、ほそぼそと商売をしているような会社やお店などは、かなり生き残るのに不利になる。

なぜなら巨大企業が、分化の状態を飲み込み塗り替え、統一しようとするからだ。



グローバル化とはつまり、大多数の人の行き場がなくなることなのだ。

残り少ないパイを奪い合わなければいけないことになる。


企業も生き残りをかけ、巨大企業どうしが競争し合う。

競争し合えばし合うほど、
一般人は逼迫される。

こんな息の詰まりそうな途上にいる。


果たして、未来は何色だろうか?






文章について

  • 2013/11/09(土) 23:43:46

「文章」は

いままさに、火中の栗を拾いにいっている”最中”の文章なのか、

かつて火中の栗を拾いに”いったことがある”文章なのかが、

文章に関わる反芻のなかで、だんだんわかってくるようになるものである。