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「本」はなぜいまだになくならないのか

  • 2013/12/15(日) 01:27:48


100年ぐらいまえ、例えばテレビがなかった。
ラジオもほとんどなかった。


娯楽が少なかった。娯楽もそうだし物質自体少なかった。






二千云十年、あらゆる情報や娯楽は溢れかえっている。


なるほど本なんかより楽しいものはあちらこちらにありそうだ。



本なんぞとっくに時代遅れの仲間入りで、真っ先に淘汰される先頭でその身を脅かされていても良さそうだ。



それでも本を読むひとはいる。必要に思うひとが一定数いる。
なぜ必要なのだろう。


テレビもあり映画もある。ネットもあれば他にも娯楽や興味を引くものはそこらじゅうに散らばっているはずだ。


それでも本を読むというひとは、テレビのスイッチを押すのがとても面倒なのだろうか。


映画を見るとめまいでもし始めるのだろうか。。





本、にはいったいなにが書かれてあるのだろう?



そこに血の通った温度も、匂いもしない。笑い声も聴こえてこない。



本はなにも応答しない。本はいつも静かに、ただポンとある。


そこには微細で繊細な感覚や、そこにしかない想像の視覚的な世界がある。


音楽は聞こえない。がしかしなにかのリズムのようなものが、自分自身のなかに、無意識に流れているもののうえに乗っかかってきたりする。



そういえば人間は鼓動しているし、頭のなかで考えたりしてる言語も、しゃべり言葉も、瞬きするのも、歩くスピードやそのとき伝わる振動も、呼吸するのも、
なにかのリズムのようなものだ。

個人個人そこに各々のリズムがある。



ひとは知らぬ間に自分のリズムを持っている。





本はとても繊細で微弱な電波のようなものを出している。

とかく理性やモラル、知性に対してアクセスすることが多いかもしれない。




いまの世の中、微弱で繊細な種々事柄は、そうではないその対極の、ガサツで鈍重で、質の悪いだけの”速さ”やそれら”長きもの”が包摂しているかのような、
なにかそれらが前提にでもなっているかのように思わずにいられない。



大は小を兼ねる…とでも言いたげな、
小なんだから大に兼ねられて当然だ、というようにもみえる。



大は小を軽視している。

”大”は世の中の流れのなかでの多数派、多数的という、ただ人数が多いというだけのことに他ならない。


ひとつの形勢であり、必ずしも数の多さがイコール、正しいというわけではないのは当然のことでもある。


また、この場合の、”大”と”小”はそもそもマッタクの別もの、比べあうような類のものではないはずだ。







自分の欲するものを得ようとするなら、
ネットの動画の方が言いたいことが纏められていそうだし、便利で効率的かもしれない。

読まなくとも、聞いていればいいし親切だ。


映画の方がクリエイティビティに溢れ、なにか豊かな気持ちになれそうだ。


或いはテレビのほうが、バカ笑いしたりしてストレスを発散できるかもしれない。



本はときどき、いやしばしば、自分が求めたり、求めようと思っていることに直結しない要素がたっぷり織り込まれてある。
本を読むのはなかなか時間を費やす作業だ。


他者の温度感や声も聴こえず、次第に周りが静寂に囲まれ、たいていのひとが嫌がる孤独の領域に近いような場所に位置する空間かもしれない。







それでもあなたは本を読もうとするだろうか。

本にはいったいなにが書いてあるのだろう。

そこに、いったいなにがあるのだろうか。



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持つ者、と持たざるものの関係はこれから悪化する

  • 2013/12/09(月) 00:46:26

資本主義もここまで来れば、あとは崩壊をも思わす、切羽の詰まった状態に感じてくる。


グローバル経済が崩壊するかもしれないとは、それなりに前々からきこえてきていたように思う。




グローバリズムとはつまり、持ちつ持たれつの関係のうえで、自由競争というともすればそこにユートピアでもあるかのような、ひとつの建て前の下、
資本を多く持つものが、”自分たちの自由に”できるシステムのことであったようだ。




強者はより強くなり、その強者の側に付着できない大多数は、富を得ることが難しくなる。


富どころか生活が追いやられるところまで、その格差が開き始めた。


格差は歪のことで社会に亀裂が入ったようなものだ。



建物の亀裂も修繕せずにずっと放っておけば崩壊の途を辿る。

堤防もありの穴から崩壊するといったりする。



亀裂が入った状態を放置しておけば、必ずや問題に発展する。



少なくとも歴史は歪や亀裂からずっと争ってきた。

歴史は戦争の繰り返しだ。争いの集積だ。






戦後、学生運動やらのひとつの騒乱があり、そのあとは消費社会を通過していく流れになった。


消費社会時代の社会主義的といわれる日本の状況がある意味で、かなり理想的だと思ったひとが多かったためか、未だにそのときの”良き時代”の感覚を持つひとも少なくない。



どこかに就職さえすればそれで安泰だ、というひとつの盲信みたいなものも、ここらあたりからきているように思う。



明日を煩わず、先を杞憂せず、生真面目に職場に出席さえしていれば、生活は保証されるという、そんな時代だったとしたら、それを通過してきた人間が親になった場合の、或いは学校の教師になった場合の子供に対する価値観の伝承がなされるようなとき、


学歴をつけて、とりあえずどこかに就職をしろ、となりやすいだろうことは容易に想像がつく。




いま、とりあえずどこかに就職しても、まったく安泰ではないし就職口自体がなかなかない。

時代はとっくに変わっている。


産業の発展なども、永遠に発展し続けるというものではない。
車も出始めは珍しかったとしても、買って所有して、また買い換えてというのを何度か繰り返すと、そこに価値をあまり感じなくなってくる。

もう車もなにか適当なのがあればそれでいいか、と。



他の商品や分野も同じで、一度買えばあとはそんなに要らなくなる。


そこに於いてひとの価値に対する思いの質が下がる。
そうなるとそれを作ってる企業は凋落し始める。



永遠に必要であり続ける価値というものも、なかなか難しい。




とはいえ、そのなかでも安定的に需要を生み出し供給し続ける企業もあるわけで、
そういうところが大資本になっている。


要は時代に関係なく、常に需要があるものを作っている、生み出している企業ということになる。



いまや、巨大な企業にもなれば、国家をも凌ぐ存在になっていて、資産家であれば、その資産を銀行などではなく、企業の株にして保有していることが多いのも、
”資本主義がどういうものなのか”、をよく理解している、というふうにいえはしないか。。



格差や自由競争は悪くない、にしても、それは前提の部分に、前置きとして、”フェアプレーならば”、というのがあればの話で、


資本主義の世界はとてもフェアプレーの場であるとは思えない。


資本力の少ない一般人と、巨大資本を持つ企業とで、フェアなわけがない。


そもそも人間の歴史にフェアプレーがあったことのほうが少ないのではないか?という思いさえ込み上げてもくるが。。



昔の戦争で使われた武器であった、銃や刀が、今は経済、金融に取って代わった。


”やり方”、も大きいが、やはり資本力がモノをいう世界ということだろう。


では資本を持たない大多数の一般人と、巨大資本をもつ企業や或いは金融関係やシャドーバンキングなどの側に付着している人間との間に大きな溝が、隔たりが顕著になってきたら、
デモや抗議を始めにし、最後は争い沙汰に発展していくのではないだろうか。



亀裂の溝が大きくなれば、争いになるだろう。



”資本主義”というものが、人間の欲を結果的に肯定したかたちだとすれば、
逆に蹂躙されたと感じた側の欲や衝動も同じように肯定されるときがくるとしたならば、
それは大問題が起こるときだ。



その日がいつくるかはわからないにせよ
またしても歴史は繰り返す、ということになるのだろうか。



問題解決の方法

  • 2013/12/04(水) 10:09:58

ヒエラルキーのかなり上のほうに位置しない、普通の一般人は、
”やりたいこと”より、
”やらなければいけないこと”の、どうしても通らなければいけない道がある。



つまりは、実践的である必要がある。



形而上的発想、思考、論理形態のみであっては、
実生活の大きな部分が欠ける。



この場合とかくそれは時間を指す。
お金もそうだが、お金は時間のなかに包含されてるとみていいのではないか。



なにをするにも、考えるにも必ず時間が消費される。




時間はイコール命のことであり、
この世に時間と健康以上に大事なものは見当たらない。




あとは、それの、”使い方”ということになる。



そこらへんから、ひとの”方法”に対する試行錯誤、アプローチが始まる。



しかし方法に取り込まれすぎると物事が抽象化しやすく、宙にも浮きやすくなる場合がある。



常に地に足をつけていようと思えば現実の場での実践感が伴わなければ、自身の内側の乖離の差異が膨らむ。



自分の、社会のなかでの置かれてる状況によって、やらなければいけないことが各々違う。





ひとは無理をしたり取り繕ったりしてみても、
それがあまりに不似合いな場合、
必ずといっていいほどに、
”お里が知れてくる”。







実践の場は問題だらけ、問題のカタマリのようなものだ。


結局それに対してどうするのか、という避けては通れない必然が条件に絡んでくる。


問題を問題のままにしておかず、
またあまりに抽象化しすぎたり分解しすぎたりして、なにか違うところに着地させたり、行き着くことばかりで、
結局どう解決するのか、というのが実践的に必要な事柄、現実の場で実体的に要求されることではないか。




アタマだけでも、また理論だけでもいけないという話ですが、

とても難しいことだと感じます。。

武士道と言ふは、死ぬ事と見付けたり

  • 2013/12/02(月) 00:17:35

現実とはいつの時代も拍子抜けするような場であるのではないだろうか。




そんなに、ピシッとしたことで固められてはおらず、
ズルいやつもどこかにはほぼ必ずといっていいほど居て、
打算的狡猾的な人種とのいざこざに巻き込まれもし、
ともすれば不毛にいたずらに時間ばかりが過ぎ去ってゆく。




理想が高かったり、意志が強いようなひとほど、その現実との差異を感じるものだ。




だからこそ、なにか理想を掲げそれに向かって生きようとしたり、自分なりに覚悟を決める対象を探し、それに向かって生きていこうとする。





西洋ふうにいえば宗教がそれにあたるかもしれないし、
日本は、葉隠のような武士精神的覚悟、があったりした。



葉隠は、いちばん人間の嫌がる、死に対し、能動的な覚悟をみせることのなかに、自由があるとした。

高尚な自由である。



しかしその積極的能動性の裏には、
深いところでの虚無、を捉えていた。


それを思わせる一説に、


「人間一生誠にわずかの事なり。
好いたことをして暮らすべきなり。」

とある。


いかにも山本常朝がいいそうにない言葉である。


そこに葉隠のみせる人間味というか、人間臭さのようなものがはっきりと伺える。

自然体で構える柔らかい人間味のようなものを感じる。




しかしそのなかに堕落や退廃、享楽のような毒のような要素が潜んでいることも同時に察知していた。


この一説のあとに、ちゃんと付け加えるように言及している。


「このことは、悪くとられては害になる話だから、年の若い連中には、けっして喋らぬ極意としておこう。」



この一連に、著者のニヒリズムが感じられる。


そこに対してどうするかを、実践的に考えた。
後の西洋ふうにいうところの実存主義的に生きれないという葛藤を突破するために、


武士といふは、死ぬことと見つけたり。

という覚悟。人間のいちばん嫌がり、避けようとする、死に対し、能動的に自らが入って、
恐怖に対する距離を、つめようとした。


距離は恐怖である。距離があるのは、その距離のぶんだけ恐怖が増すのを知っていたのだろう。


その能動性と覚悟のなかにこそ自由や生きる意味、をみいだした。

そんなふうに感じられる。



日常の些事瑣末なことにただただ生命を浪費するような時間の重ね方のなかに、美、というか、なにか高尚なもの、実存的なものをとても見いだせるとは思えなかった。



「まことにわずかな一生」、であるからこそ、その少ない時間をどうすれば本当の意味で有意義なのか、を問うた。




必ずしも、享楽やただ生き延びようとすることのなかに、自由や、自分にとっての一生があるとは考えなかった、世界の他の国にはない、ひとつの哲学である。