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武士道と言ふは、死ぬ事と見付けたり

  • 2013/12/02(月) 00:17:35

現実とはいつの時代も拍子抜けするような場であるのではないだろうか。




そんなに、ピシッとしたことで固められてはおらず、
ズルいやつもどこかにはほぼ必ずといっていいほど居て、
打算的狡猾的な人種とのいざこざに巻き込まれもし、
ともすれば不毛にいたずらに時間ばかりが過ぎ去ってゆく。




理想が高かったり、意志が強いようなひとほど、その現実との差異を感じるものだ。




だからこそ、なにか理想を掲げそれに向かって生きようとしたり、自分なりに覚悟を決める対象を探し、それに向かって生きていこうとする。





西洋ふうにいえば宗教がそれにあたるかもしれないし、
日本は、葉隠のような武士精神的覚悟、があったりした。



葉隠は、いちばん人間の嫌がる、死に対し、能動的な覚悟をみせることのなかに、自由があるとした。

高尚な自由である。



しかしその積極的能動性の裏には、
深いところでの虚無、を捉えていた。


それを思わせる一説に、


「人間一生誠にわずかの事なり。
好いたことをして暮らすべきなり。」

とある。


いかにも山本常朝がいいそうにない言葉である。


そこに葉隠のみせる人間味というか、人間臭さのようなものがはっきりと伺える。

自然体で構える柔らかい人間味のようなものを感じる。




しかしそのなかに堕落や退廃、享楽のような毒のような要素が潜んでいることも同時に察知していた。


この一説のあとに、ちゃんと付け加えるように言及している。


「このことは、悪くとられては害になる話だから、年の若い連中には、けっして喋らぬ極意としておこう。」



この一連に、著者のニヒリズムが感じられる。


そこに対してどうするかを、実践的に考えた。
後の西洋ふうにいうところの実存主義的に生きれないという葛藤を突破するために、


武士といふは、死ぬことと見つけたり。

という覚悟。人間のいちばん嫌がり、避けようとする、死に対し、能動的に自らが入って、
恐怖に対する距離を、つめようとした。


距離は恐怖である。距離があるのは、その距離のぶんだけ恐怖が増すのを知っていたのだろう。


その能動性と覚悟のなかにこそ自由や生きる意味、をみいだした。

そんなふうに感じられる。



日常の些事瑣末なことにただただ生命を浪費するような時間の重ね方のなかに、美、というか、なにか高尚なもの、実存的なものをとても見いだせるとは思えなかった。



「まことにわずかな一生」、であるからこそ、その少ない時間をどうすれば本当の意味で有意義なのか、を問うた。




必ずしも、享楽やただ生き延びようとすることのなかに、自由や、自分にとっての一生があるとは考えなかった、世界の他の国にはない、ひとつの哲学である。



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